2011年3月20日日曜日

助け合いで心も豊かになれる

店を始めて24年、始めた頃はバブルの終わり頃でした。店を始めるのもすべてが
高額で、小さな店なのですが2000万ぐらい掛かる時期でした。
店を始めるために修行中から業者を大切にしていろいろな事を教わりました。
当時、板前やコックが業者に無理難題や賄賂を要求していじめていました。

今回の大地震の影響でも配達に来た業者にコーヒーを出したり、ご飯を食べさせたり
道が混んでるから食べる暇もないしと言う業者にはおにぎりを作ってやったり
普段から、配達に来た業者にもゴミを回収に来た業者に、ご苦労様、ありがとうって
声をかける。

これって業者はいじめられているので凄くうれしいらしい・・・

逆に、これが助かっています。ゴミ回収業者は本当はもう一枚ゴミ袋に出さないと
いけないのに、いいよ!って1枚分で持っていってくれます。一枚350円のお得。
内緒で会社から怒られるまで値上げをしないコーヒーメーカーや、お米屋さんも
この大変な時期に、いくつでも配達してくれてます。
それを近所や友達に小分けして、譲ってます。譲っただけで感謝され
逆にうちに足りないトイレットペーパーや並んでやっと買ったパンを頂き・・・・
それをまた譲って、感謝され・・・・今、足りないものがありません・・・・・
わらしべ長者状態・・・・当たり前のことなんですがね・・・・

父親が、戦争で疎開して食べることに凄く苦労した話や疎開先から
帰ってきたときも、東京の家は空襲ですべて焼け、逃げて横浜に移ったので
友達と別れて保土ヶ谷駅から小学生時に道を聞きながら初めての土地に
帰って来た時に道を聞いた保土ヶ谷駅の近所の人にご飯を頂いたそうです。
そこの家だって大変な時に見ず知らずの子供に食べ物をくれた・・・
その後も大変だったのでなかなかお礼にも行けず、時が過ぎて
親父は行きづらかったのでしょう。その話を聞いてお礼に今から行こうって
一緒に行きました。ご主人はすでに亡くなっていて、奥さんが憶えていて
「当時、家にも食べ物が無いときに、旦那がそれが当たり前って言って
苦労したのよ・・・」って!
親父が息子の前でボロボロ泣いた事を憶えています。
「今が有るのも、子供を持てたのもあの一食があるから・・・」
後で、何でもっと早くお礼に行かなかったのと聞いたとき
「疎開先で田舎の子供がご飯を食べてるのに俺たちは何も食べれなかった・・・
 それが、見ず知らずの人に食べさせてもらったんだ。あのお礼は
 いつも頭の中にあったけど、どう返していいのか悩んでいた・・・
 簡単に返せるご恩ではなくてな・・・」

子供の頃には理解出来なかった・・・母親は横浜の農家で食べることが
出来ない家ではなかったし、親父と俺の秘密。

そんな訳で、自分の中にはあの一食の栄養のDNAがあるのかも・・・・

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